注意する能力

投稿日時 2009-12-24 2:49:49 | トピック: コラム


 ピアノのレッスンの中で出来ないところを出来るようにするには練習が必要です。

 その練習って何でしょう? と考えてみたことがありますか?

 ピアノのレッスンに行くと先生から「よく練習しましたね」「ここは練習が足りないね」「来週までに沢山練習して下さい」とか言われます。生徒の方も言われるまま「ハイッ」と元気よく返事をしてしまいます。

 でも一口に練習といっても、練習にはいろいろ種類があります。まず大きく分けると『良い練習』に『悪い練習』です。

 『良い練習』は具体的にどこをどういう風に直すか決めて、そこを集中力と細心の注意を払って聴きながら練習する事です。自分が出している音が、音楽の音か、ノイズかを聴き分けながら体が不自然にならないように体のバランス・コントロールに気をつけて、時間をかけて一生懸命繰り返しするのが『良い練習』です。これを毎日繰り返せば出来なかったところが上手に出来るようになります。

 私は思うのです。人は何かをする時それが『出来る』又は『出来ない』と、どちらにでも思い込む事ができます。それですから仕事をする時、どちらの心の状態で始めるかが問題です。

 仮に「出来ない」と思える人は、練習を始める時「私は出来ない人だから注意しなくてはいけない」と心構えを作ってから始められるでしょう。そしてこの人は一つ一つ注意をして仕事をします。そして毎日たくさん注意をするので注意する能力が育っていきます。

 もう一つの「出来る」と思い込んでいる人は「私はもうこんなこと出来るんだ」という心の状態で練習するので、すべて「不注意」になります。同じ時間を使ってもこれでは不注意、即ち乱暴に弾く能力を作ってしまいます。

 例えば、左手の伴奏でよく使うドソミソです。これは左利きの人は別にして、右利きの人にとってとても難しいものです。
 一見、ドソミソはやさしそうに思え、ピアノを弾いている人のほとんどが『私はドソミソを弾ける』と思っています。多分、疑う事もないでしょう。


 でも私は、自然な体と手の使い方で美しい音楽の音を研究しているうちに、ドソミソを自然に逆らわず美しく弾く事がどんなに難しいかが分かりました。

 具体的に言うと、最初の大切な拍子の音ドが⑤の指で、指が弱いため誰でも小指を堅くして音が思うように出せないこと、次に軽く弾かなければいけない二つのソが親指のため音を押すか叩くかしてしまうことです。要するに左手の5本の指の中でドソミソの自然の拍子を作ること、リズムに乗る事をコントロールしなければいけないので、あまり器用に動けない左手にとって、とても難しい問題なのです。

 私は今でも自分はまだ完全に弾けない、出来ないと思っています。それですから、子ども達のレッスンの時に一緒に弾く時でも一人で弾く時でも細心の注意を払います。毎日々々365日、細心の注意を払って弾いていると思いがけず、良く出来るようになります。

 だから練習というもののゴールはドソミソが出来ることではなく、注意する能力を育てることによって結果としてドソミソが出来ることだと思います。

 私は名演奏家ではなく、教育家なので名人・巨匠と言われる大家のコンサートピアニストのことは分かりませんが、彼等も一つの物が『出来る』『出来ない』ではなく、精神を集中し音楽の音で音楽を演奏するための方法を、完璧に注意しながら使いこなせる人のような気がします。

 『悪い練習』は『良い練習』のすべて反対です。ただ何も注意をしないで、乱暴にピアノに向かって音を出すこと、これは最悪の練習です。でも時には、先生がどこを注意するのか指示して下さらないと、可哀想な生徒は一生懸命悪い練習をしてしまいます。これは悲劇です。

 世界的に有名な画家のマチスが死ぬ時に「近頃やっと満足に一本の線が描けるようになったのに、もう死ななければいけないのか」と言ったと聞き、どの分野でも大家は仕事をする時、常に初心に帰り何も出来ないという心構えで細心の注意を払い、結果的に素晴らしい仕事をしているような気がしてなりません。  【K】(1996.12.16掲載) 




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