「うちの子は、親の言う事は何も聞かないんです。何を言っても駄目、もうあきらめました」とお母さん方がよく言います。「いや! あきらめないで! どうかあきらめないで下さい」と私は答えます。
私が長年生きて、観察したところによると、どうやら人間は子どもの時に、好むと好まざるに関わらずまわりの人々から口うるさく言われた事、即ち見たこと聞いたこと全部身についてしまって、それにしばられて生きなければならないような仕組みになっています。
例えば、私のように昭和2年頃生まれ育った人は、小学校の時によく先生方のお話に「お米は一粒でも粗末に扱ってはいけません。御飯粒一つに農家の人が一年間、汗を流して心を込め苦労して作った思いがこもっているのです。一粒といえども大切にしましょう」と毎日のように言われました。家の中でも同じことで、「食べる物を粗末にしてはいけません」と言われ続けました。そしてその度に「又、同じ話」とうんざりしていました。
あれから60年近く過ぎて、何でも食料の豊富にある時代になりましたが、私は今もって『お米一粒』の話を忘れる事が出来ず、食事のとき御飯は一粒も残さないようにと気を使ってしまいます。時々、同年代の方と話をすると同じ思いを持っておられるようです。そして私はこの例一つをとっても、子どもの時に身に付いたものは『その人を一生支配するのだ!』って思います。
もう一つやはり私の家の事ですが、母は礼儀・作法・その他何でも厳しかったので、箸の上げ下ろしに小言を言いました。私はいわゆる『良い子』で母の言う事をよく聞き、実行しようと努力しました。
ところが私の姉は私と性格が正反対で、何でものびのびと自由に自分の思った通りに行動し、母の言う事など馬耳東風で全然聞いていません。それですから毎日々々、朝から晩まで叱られ通しでした。どんなに母がきつく叱っても、姉はその部屋を出れば歌を唄っているようなのん気な人でした。
ところがその姉が結婚して3人の男の子の母親になりました。ある時、姉の家へ遊びに行くと、姉が小学生の子供3人に小言を言っています。驚いた事に声の調子・小言のセリフが母とそっくりなのです。昔、姉が子供の時に母から言われてちっとも聞いていないと思ったのに、どうしてそんなにそっくり覚えてるの!とびっくりしてしまいました。その頃は私も教育の勉強をしていませんでしたので、『どうして? なぜ?』と、ただ不思議でした。
今はとてもよく分かっています。姉は子どもの時、母から言われる事は気に入らなくて少しも言う事を聞かなかったのですが、毎日々々の沢山の小言は、彼女の頭の中にひとつ残らず全部インプットされていたのです。
人間は素晴らしい頭のフロッピーを持ったコンピューターですね。入れられたものは、何年か経って必要が生じた時取り出して使えるようになっているのです。それですから、子どもの時代に何をインプットされるか重大問題です。良い事ばかりだといいのですが、悪い事だって必ずインプットされてしまいます。私達大人は、本当に心して子ども達に接しなければいけませんね。
そして相手が喜んでもいやがっても親が信念持って『こうするべき』と思う事は毎日言って下さい。代々伝えるべき事は毎日々々、繰り返し話して下さい。芸術の教育、道徳観念、生活の作法、人間として生きていく上の大切な基本はすべて子どもの時に身に付けなければ、成人してからでは手遅れです。
親は小言を言ってすぐ結果を求めます。そして子どもがそれをやらないと気短かになって、もう駄目と言ってあきらめます。あきらめてはいけません。今、頭のフロッピーに入れた事は10年か20年先に役に立つのです。すぐ応じないと怒ってはいけません。
私のピアノの教え方も同じです。若い頃は今言った事をすぐ出来ないとかなり怒りましたが、今は繰り返し根気よく同じ事を言っています。それが必ず10年か20年先に役に立つはずと確信しています。
どうか皆さん、子どもを育てている方々、あきらめないで毎日お経を唱えるように言いたい小言を言って下さい。『うるさい!』と言われようが、無視されようが構いません。言い続けて下さい。それがその子の一生の財産になるのです。
クラシックの音楽も同じです。毎日根気よく、世界で最高のレベルの演奏を聴かせて下さい。結果は10年20年先にはっきりあらわれます。
どうぞあきらめないで! 【K】(1995.8.22.掲載)