愛とか愛情という言葉は教育の世界で好んで多く使われますが、具体的にはどういう事なのでしょう。愛というものは人間に何をさせるのでしょうか。たくさん使われているわりには漠然としていて分からないと思い、ずっと考え続けていました。
そして出てきた答えはこうです。愛情とは相手が誰でも自分にとって面倒な何かを喜んでしてあげられることなのです。
まず手近な例で説明しますと、『お母さんが自分の子ども達におやつに何か美味しいお菓子を食べさせてあげたいと思った時、お店で買って来てしまえば楽なのに、時間をかけて色々面倒なことを一生懸命やって心のこもった手作りのケーキを作ってあげる。又お客様に美味しいお茶を味わってほしいと願った時、お湯加減からお茶碗を温めることから一つも手を抜かないで、面倒なことをいとわずやると心のこもった美味しいお茶ができる。』等々です。
もっと社会的な問題で言えば、貧しさに苦しんでいる人を少しでも助けようと面倒がらないで何かすることです。みんな愛情がなければ出来ない仕事です。
ピアノの弾き方も練習も同じです。一つ一つの音に気を使い音楽の音が作れるようにするには、重心に力を集め他の力を抜き、良い体のバランス、コントロールに気を付け、鍵盤と指の接触の時ぶつかるショックを抜く手続きを一つ一つ面倒でもやらないと、温かい愛情のこもった良い音楽は作れません。
この面倒な事をすると人に喜んで聴いて頂けるような良い音楽になるのです。何も面倒な事に気を配らず、楽譜の通りに音を出せばそれでいい! では、心も魂も何もないひどい音楽になってしまいます。
家庭での練習も同じです。親は我が子が可愛いので練習をさせようとします。でも子どもは計画的な欲がないので、面倒な練習はいやがります。それを無理にさせるのは楽しいものではありません。面倒なことです。でも親だけがそれをさせることができます。それは我が子に対して溢れるほどの愛情を持っているからです。
生活の中の厳しい躾も同じでしょう。うるさく面倒なことを言わないで、面白おかしく毎日を過ごしてしまう方が親にとっては楽ですが、子どもがいやな顔をしても毎日繰り返し言うのも、親は子どもに愛情があるので言い続けるのです。
世間一般に愛情とはベタベタしたもののように考え違いされていますが、私達はしっかり考え直して面倒な事が喜んで出来るような人間を育てなければいけないと思います。世の中が便利になればなるほど面倒なことが嫌われて、愛情が失われていくような気がしてなりません。
そう考えながらこれを書いている時、先月亡くなったマザーテレサの言葉を思い出しました。彼女は「愛の反対は憎しみではない。愛の反対は無関心です」と常に言われたそうです。本当にその通りだと思いませんか?
何も心に感じない、何も考えない、自分さえよければ他の人のことは無関心! これは愛情のないおそろしい世界です! 【K】(1997.10.9.掲載)