教育という言葉があります。それは一般的には先輩が後輩に人間形成の上で大切な事柄を教える事と考えられています。そしてそれを教えられるのはよく勉強し知識があり経験が豊富な人です。それを先生と呼びます。
赤ん坊から幼稚園に入るまでは家族の人々が先生の役目をする事になるでしょう。学校に入学しても家族の両親又は祖父母は子どもにとってとても大切な先生です。
人間にとって大学生になってからでなく0才から中学・高校までの教育が非常に重要なものだと、私は長い年月生きて、実際に色々な経験もし、沢山の子ども達を教えてみてよく分かりました。
教育という熟語は、教えるという漢字の次に育てるという字が続いています。これはまず言葉で教えて、それをその相手の人間の中に育てなければいけないという事なのではないでしょうか。一方的に教えただけでそれを相手がどうしようと勝手にどうぞと放り出してしまうのは、相手が幼い子どもの生徒だった場合あまりにも無責任です。
最初は教えようとする事を言葉で説明し知識で教えます。これは難しい事ではありません。
さてその次が教育の育の字の方の仕事です。最初に言葉で話して教えた良い事を、その子どもの心や体の中に育ててあげなければいけません。これはとても、とても難しい仕事です。そして長い月日が必要で、その上育ててあげる側に温かい愛情と忍耐と根気がないとそれは育たないでしょう。時間をかけて能力が育った時に初めて、人はそれが自由に出来るようになります。
私達が子どもに何かを教育しようと思ったら、一年や二年で完成出来るものではありません。短くても十年が一つの区切りのように思えます。それは育の部分に時間がかかるからです。ところが近頃は何でも世の中が忙しくなっているせいか、教育の場の教える側で根気のいる『育』が忘れられてしまっているような気がします。
昔、鈴木先生が「例えですが学校の先生が授業で数学を教え、テストをしたら30点しか取れなかった生徒に『100点の子もいるのにお前は勉強しなかったね』とたしなめるのは間違いで、その先生はその子に30点分しか教えられなかっただけで、先生の方に責任があるのですよ」と言われました。
この話を聞いた時私は『ハッ』としました。ついつい頭の中で一人一人の生徒の出来、不出来を相手のせいにしているけれど『これは私の責任なんだ!』と思いました。
時間をかけて愛情を注いで、教えた事がその子の心や体の中に育つまで面倒をみる事が出来て初めて、私は教育家だといえるのではないでしょうか! 【K】(1995.1.25.掲載)