何でもないこと、当たり前のことを、私達はつい見落として忘れてしまいます。それは当たり前の何でもない事だから、気にすることも思い悩む必要も全くないからです。
例は沢山あります。人が毎日吸って生きている空気だってあるのが当たり前、人が呼吸するのも、歩くのも走るのも食べるのも自然に体がやってくれるので、あまり考えてみていません。それより生活している中で起こる色々なこと、物やお金、高級で難しいことには興味をそそられます。
これと同じようにピアノの弾き方でも聴き方でも、一番何でもないと思われる一つの音の鳴らし方について深く考える人はなかなかいません。一音に気を入れて、心や魂を込められる音楽の音をどうやって鳴らすかを考えてみなければいけません。そして、気を集中させてその音を聴く訓練を繰り返さなければ、正しく聴き取る事が出来ないのです。
人は耳が聴こえますから、それは当たり前で当然聴いていると思って注意を払いません。 何でもない事を大切にしなければ何も本当の事は分からないのです。
一つの音の鳴らし方には二種類の方法があります。それはスタッカートとレガートです。まずこの二つについて毎日よく考えて下さい。 聴いて下さい。
ピアノを弾いて音がすればそれは当たり前で、それがピアノの音と何も疑わない人が大部分ですが、よく気を付けてみると本当に音にはいろいろ種類があります。
ピアノから作られる音をまず大きく分けて、騒音(雑音)と音楽の音です。 前者は、物と物(鍵盤と指)がぶつかって出る音ですからショックの音で、人間に不愉快な感じを与える騒々しい音です。 音楽の音はショックがなく音が鳴った後、倍音が響いて美しく人の心に訴えるものです。
次に一音でなく二つ以上の音を続けて弾く時、レガートがとても難しいと気が付いているでしょうか。レガートは一つ一つの指が柔らかく鍵盤の上をなめらかに進まなければいけません。
それは丁度人が歩く時に使う足の裏のようにまず踵から地面につけ、次に足の裏で地面を柔らかく触り、指先で地面をつかむようにして後に押して歩くのとまったく同じ方法です。上手に出来るとレガートはとても静かで水が流れるように美しく弾けるのです。多くの人は音が並んでいれば、レガートだと思っています。何でもない事を研究してほしいものです。
左手の伴奏によくあるドソミソも同じです。四個で出来ていますから、1234の1と3が強拍で2と4が弱拍です。ところが2と4は親指のため指が堅くなってぶつかり、4拍子の基本とは反対に2と4が強くなってしまいます。
それでもピアノを少し弾ける人で、ドソミソや3拍子のドミソを正しく弾けない! なんて考えている人はとても少ないような気がします。それはドソミソがあまり単純な事だからです。
それとスケールやアルペジオの指を変える事も何でもない事なのでみんな気楽に考えています。
ドレミ ファソラシ ド
123 1234 1 の時 3から1、4から1と指を変えるのですが、手の平の位置を動かさずに親指が中指の下をくぐるようにしなければいけません。4から1も同じです。
これは何でもない事のようで、とてもとてもピアニストにとって大切な基本のテクニックで初歩の時から気を付けなければいけないことなのです。
いつも一緒に研究をしているT先生がある日メンデルスゾーンのことを書いた本を持って来て見せて下さいました。 その中に姉妹への彼(メンデルスゾーン)の手紙に、娘にピアノを教える楽しさの話があり、『マリーはいまハ長調のスケールをさらっています。ところが僕はちょっと時間を忘れてしまってセシル(奥さん)がやって来てびっくりするまで、マリーの親指を中指の下にくぐらせるようなことをさせていたのです』と書いてあります。
やっぱり、偉大な作曲家だったメンデルスゾーンは何でもないと思われがちな指を変えるテクニックが、いかに大切な基本のテクニックかよく知っていて娘に時間も忘れてしまうほど、一生懸命教えていたという事です。
何でもない事、大切にしましょう。 それが一流への近道です。 【K】(1997.5.1.掲載)